みたけ道 SMNGA5月研修
山梨における「みたけ道(みたけみち)」というのは、日本百名山の「金峰山」の山岳信仰のルートのことを言います。山宮が山頂横の「五丈岩」の南にあり、そこに登るのに里宮の「金桜神社」にまずお参りして行くというのが正しい金峰山登山でした。金桜神社のあるのが甲府市御岳という地区です。金峰山講中登山の最盛期には神主の家が70件、参詣者の宿泊所が200軒も在ったと言われています。昔のルートは金桜神社から猫坂を通り、黒平集落を経て、御室小屋に泊り山頂を極めるというものでした。

山梨の地名を考えるときの最も参考になる資料として「甲斐国志」文化11年(1814年)成立の江戸時代の地誌があります。その中に金桜神社に至るみたけ道は9口あると書かれています。(甲斐国志 巻ノ二十 山川部第一 巨摩郡北山筋)吉沢村、塚原村、亀沢村、万力村、西保村、杣口村、穂坂村、江草村、小尾村です。当然現在では麓から歩いて行くということはありません。今回はその江草村からのルートを歩きました。みたけ道としてはすでに廃道になっているので地図読みをしながらの研修となりました。

甲斐国志は詳細な記述はないので、別な資料の登場です。昭和の初めに活躍した原全教
尾崎喜八に「奥秩父の王子」と言われた人で、昭和10年刊行の「奥秩父・続」にこのルートの記述があり、その文章をベースに山行を進めました。


限られた時間の中で石仏探査と読図を同時にやると時間がかかります。目標の大峠の手前ではかなりスピードを上げました。大峠でお昼にして慌てて下りました。


というのも原全教の文章に出てくる「萬屋」が集落に残っていて、下調べの時の80歳代の末裔の方にみたけ道の観音建立にまつわるお話を聞く約束になっていたのです。

実際は農作業が忙しくて相手にされずお話も聞くことはできませんでしたが、昭和の始めはそんなに昔ではないぞ、と思いました。

それでも今は廃道になったみたけ道、江草岩の下(えぐさいわのした)ルートでであった石仏の数は全部で12体。一番大きいものは人間以上の大きさで、原全教の地図の中に「地蔵尊」と書かれているものです。因みに、現在の観音峠は「萬屋の発願」の後そう呼ばれるようになったのだそうです。

山梨の地名を考えるときの最も参考になる資料として「甲斐国志」文化11年(1814年)成立の江戸時代の地誌があります。その中に金桜神社に至るみたけ道は9口あると書かれています。(甲斐国志 巻ノ二十 山川部第一 巨摩郡北山筋)吉沢村、塚原村、亀沢村、万力村、西保村、杣口村、穂坂村、江草村、小尾村です。当然現在では麓から歩いて行くということはありません。今回はその江草村からのルートを歩きました。みたけ道としてはすでに廃道になっているので地図読みをしながらの研修となりました。

甲斐国志は詳細な記述はないので、別な資料の登場です。昭和の初めに活躍した原全教
尾崎喜八に「奥秩父の王子」と言われた人で、昭和10年刊行の「奥秩父・続」にこのルートの記述があり、その文章をベースに山行を進めました。


限られた時間の中で石仏探査と読図を同時にやると時間がかかります。目標の大峠の手前ではかなりスピードを上げました。大峠でお昼にして慌てて下りました。


というのも原全教の文章に出てくる「萬屋」が集落に残っていて、下調べの時の80歳代の末裔の方にみたけ道の観音建立にまつわるお話を聞く約束になっていたのです。

実際は農作業が忙しくて相手にされずお話も聞くことはできませんでしたが、昭和の始めはそんなに昔ではないぞ、と思いました。

それでも今は廃道になったみたけ道、江草岩の下(えぐさいわのした)ルートでであった石仏の数は全部で12体。一番大きいものは人間以上の大きさで、原全教の地図の中に「地蔵尊」と書かれているものです。因みに、現在の観音峠は「萬屋の発願」の後そう呼ばれるようになったのだそうです。
スポンサーサイト